音と癒しの時と空間 vol.18


明日がイースターなのに、なかなか教会に行けてなくて、信者なのに~と思っています。さて、復活祭ですが、イエスキリストが十字架上で亡くなるけれど、3日後に復活されたというお話で、それをお祝いするんです。イエスの復活を信じて眠りについた信者も共に復活するんでした。

今って、やはり世紀末でしょうかね?と言っても、デーモン小暮のことではないです。

私は、何といっても、このカッチーニのアヴェマリアが好きです。

アヴェマリアという曲は、とても沢山あるんですけれども、このカッチーニは聴くと涙が止まりません。

イエスが私たちの罪によって十字架にて死んでしまうのですが、聖母マリアの心の思いが、この曲を聴くと、その哀しみが溢れてきて涙に変わって、自然と頬を伝って流れてくるんです。

やはり、復活しておめでとう!だけでなく、その前に何故イエスが亡くなったんだっけ?というドラマを知らないと復活の意味もちゃんと分からないのかも。

ディズニーランドのクリスマスやハッピーイースター。お祭りムード満載で派手にやっていますが、さて、そこにどんなドラマやエピソード、意味があったっけ?とやはり思ってしまいます。

この哀しみを知らなくては、本当の嬉しさって理解できないかも。

私は、十字架の首飾りの十字架にイエス様がついてるのが好きです。が、それを、気味が悪いと感じてしまう人も結構います。

私は、「何でだろう?」と思うんです。

気味が悪いと思う人の言い分もあります。それは、イエス様はもう復活したんだから、十字架にはイエス様は居ない。という理由です。

でも、自分は、やはり自分が犯してきた、たくさんの罪のために、イエス様の命まで奪ってしまったという事実からは、目を背けたくないって思うので、十字架にはイエス様ついているんです。

皆さんは、どっちの十字架が好きでしょうか?

私は、軽い十字架よりも、重い十字架の方が好きです。より真実に近いんじゃないでしょうか?

イエス様は、十字架を自分で背負って山を登られました。とても重かったと思います。

だから、私たちも、自分の荷は自分で。自分に架せられた十字架は自分で背負うべきだと考えます。

どうしても、自分の力では背負えないと嘆く時には、きっとイエス様が手を差し伸べてくれるのでしょう。

足跡という詩があって、私は大好きです。

・・・「あしあと」・・・・・

ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。

暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。

一つは私のあしあと。もう一つは主のあしあとであった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、私は砂の上のあしあとに目を留めた。そこには、一つのあしあとしかなかった。

私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。

このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについてお尋ねした。

「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。一番あなたを必要としたときに、あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません。」

主はささやかれた。

「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。

あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」

クリスチャンの方も、そうでない方も、この詩を読むとイエス様の愛とか力を感じるのではないでしょうか?

さあ、いよいよ復活祭がきます。いつも、心には主が共におられることを感謝して!


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